1月22日(日)大震災 318日目

 葬祭会館ほたるで梅本家葬儀告別式焼香、ナリサワカルチャーギャラリーで石巻市・東松島市・女川町の小中学生の書き初め展覧会を見学児童生徒の力作に心地よい気分。「希望」「前進」「元気」などの毛筆と詩を書いた硬筆の部、知人も子どもさんの入選作を見に来たと1,400点の作品のうち特選は県の審査会に出品される。
 午後からは義弟から連絡いただいた妹と甥っ子二人をはじめ東日本大震災で大勢の児童・教職員や地元の人達の犠牲者が出た大川小学校の遺族への説明会のため大川小学校が間借りしている飯野川第一小学校へ移動した。校門に行くと大勢の報道陣がいて、そこに立て看板があり午後2時まで待機するように記載してあった。受けつけて遺族の待っている3階へ、そこで報道機関を入れるか入れないかの話し合いを行い、入れることで合意し午後2時40分過ぎから頭ドリの撮影、2時44分黙とうを捧げ、45分に境教育長から「今日は、お集まりいただきありがとうございます。多くの子ども達が、輝かしい未来を奪われ、その子ども達にたくさんの愛情を注いでこられた皆様方が深い悲しみの中にあることは、まことに痛惜の極みであります。お亡くなりになられた方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。 みなさんのお子さんにとっても最も安全であるべき学校管理下での被災につきましては、教育委員会として、学校が定めた防災計画や避難訓練の取組みの効果的な実施を指導するなど、津波に対する危機意識を高めておくべきだったと悔やまれるところであります。本当に申し訳ありませんでした。また、震災直後に多くの教職員が亡くなっているのに、学校に対する支援が遅くなり、皆様への対応が十分にできなかったことで心の痛みをさらにおおきくしてしまいましたこと、重ね重ねお詫び申し上げます」と言葉を大事に挨拶した。2時50分に資料が配布され、柏葉校長先生と保護者の皆様へと題した遠藤純二教務主任のFAX、大川小学校聞き取り調査記録による地震発生から津波に会うまで時系列による状況報告、大川小学校震災時の対応についての考察の3部構成で説明があった。教育委員会では、津波時に避難場所を定めていなかったことにより高台避難ができなかった災害対応マニュアル、津波の情報を得ながら適切な避難行動をとることができなかった危機意識が低かったこと、過去の経験や知識等から津波が来ないという思い込みななどが原因だとする検証結果であると謝罪した。午後3時32分に大川小学校柏葉照幸校長が「今回の震災で、子どもたちと教職員の尊い命が失われてしまいましたことに、校長として心からお詫び申し上げます。今回の取り返しのつかない事態は校長として至らなさに原因があります。マニュアルの不備や職員の危機意識を高めてこなかったことなど、いくら謝罪しても決して許されるものではありません。また、震災後の私の不適切な言動により、ご遺族の皆様の心の傷を深くしてしまいました。私が何度謝罪しても、ご遺族の皆様の傷は癒されるものではありませんが、子どもたちや教職員そして皆様に心から謝罪を続けてまいります」と挨拶した。遺族への説明会は今回で3回目。3時34分から質疑応答、途中休憩を挟み午後6時近くまで続いた。質疑冒頭で、亀山市長がなぜここに来ないのか?追加の説明会であるが石巻市立の学校でトップの不参加に対する不満、なぜ大川小学校だけが大勢の犠牲か考察が足りない、3つの要因が重なったなど。途中から柏葉校長先生の答弁に居た堪れなくなった。この3つの要因がクロスしたほかにマニュアル以前に安全を確保しなければならない学校なのだが、機能不全を感じた。まるで、羅針盤を持たない船に乗船し、急に波と風、雨が同時に襲い偶然が重なったとはいえ対応できず座礁転覆したと思ったからだ。マニュアル整備、防災カード、教育委員会への報告、職員間の共通理解など、人災発言も多く聞かれた。境教育長は、皆様の悲しみを分かち合うことに努力し今後とも話し合いを続けていく、年度内にもう1度することとなった。帰りに弟に電話したが、亡くなった妹と二人の甥っ子は返ってこない「お兄ちゃん」「おんちゃん」あの声はもう聞くことができない。ただただ冥福を祈るのみだ。

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