1月29日(水)ピュア
本日の河北新報の社説『地震後、数十分間も校庭にとどまったのは、やむを得なかったのか。それとも、何らかの落ち度を指摘されかねない対応だったのだろうか。東日本大震災で74人の児童と10人の教職員が死亡・不明になった石巻市大川小の津波災害をめぐって、検証委員会が最終報告書(案)をまとめて遺族側に示した。避難が遅れた理由の解明や責任の所在などについて、遺族側からさまざまな疑問が出されている。校庭から避難を開始した時には既に時機が遅かったことが、数多くの犠牲者をもたらす要因になった。報告書もその見方を示しているが、なぜそうなったのか、どこに責任を求めるべきなのかといった肝心の点ははっきりしない。遺族らが疑問や不満を抱いているのなら、検証委は報告書の内容を最終的に確定させるまで十二分に話し合い、説明責任を果たさなければならない。報告書によると、大川小では3月11日午後2時46分の地震発生後、机の下で身を守り(一時避難)、次いで校庭に全員が出た(二次避難)。校庭から北上川により近い「三角地帯」と呼ばれる場所に向かい始めた(三次避難)のは、午後3時33分か34分と見積もられている。おそらく40分から50分程度は校庭にとどまっていたとみられるが、それが避難行動の遅れに決定的な影響を及ぼしたのは明らかだ。児童や教職員の一部が訴えていたという校舎南側の山への避難はもちろん、三角地帯への避難であってももっと早い時間帯だったら、状況はかなり違っていた可能性が高いだろう。
常識的に考えて、校庭にとどまった時間は長すぎる。理由はもはや推測するしかないが、報告書は教職員の根拠のない「楽観的思考」などによって「危機感が高まらなかった」といった可能性を指摘した。ただ、校庭にこれほど長くいるのであれば、周辺よりも安全だという判断が土台になっていなければならないが、そうとも言い切れない。大震災の2日前に宮城県沖で起きたマグニチュード7.3の地震で津波注意報が出た際、大川小では校庭に避難し約20分間待機した。避難後、教職員の間で北上川の堤防を越えるような規模の津波に備え、より安全な避難場所を確保する必要性などが話し合われた、と報告書は記している。
つい2日前、大規模な津波が襲来すれば校舎も校庭も安全でないという意見が出ていたのなら、大津波警報が発令されてもなお校庭にとどまったのは理解し難い。まして、雪が降って暖房の準備をしたほど寒くなっていた。検証委はさらに証言などを調べ、可能な限り避難行動の遅れについての解明を目指すべきだ。判断の是非や責任の所在もより明確にすることが不可欠だ。「楽観的思考だった」では済まされないだろう』。まさに、御指摘の通りで、当初、市は市議会に2千万円で第3者による検証委員会が実施できると説明し遺族との話し合いをすることの付帯条件付きで実施したが、昨年補正予算で本体金額の約倍の3700万円を追加措置し総額5700万円となったが、肝心な疑問に踏み込まず最終報告(案)が提示された。誠に遺憾だ。そもそも教育長不在のトップの責任は大きくその責任を問われると「悪いのは市の教育委員会」と発言、さらに「宿命発言」は問題をさらに感情的にした。
さて、この問題や百条委員会、グループ化等々についてどうなっているのかという質問がお会いする方々から聞かれる。また、地元紙が報道しないのはなぜかというものだ。イオンモール石巻で宮城県石巻支援学校児童生徒作品展を見学、公的な作品発表の場所がなく大変嘆いていた。作品展は、ピュアな心がそのまま作品に映し出され心が休まる。しがらみのないピュアな心で対応すれば簡単だ。