1月23日(木)改革
ホテルで朝食を済ませ、集合時間まで1時間半ほど散策。はじめに、諏訪神社参拝。御祭神は、建御名方命(大国主命の御子神)。「正親町天皇の御宇天正元(1573)年3月12日、信濃国諏訪明神(現諏訪大社)の御分霊を勧請す」と伝える。新編相模国風土記稿に「第六天神、子神社ト相並ンデ諏訪社村民持」とあるのは当社のことである。記録に明らかなところでは享和元(1801)年8月、本殿拝殿の御造替があり、現在の社殿は大正12(1923)年5月、御造営されたものであると。続いて、諏訪大神社に移動。祭神は、健御名方命・事代主命他五柱、康暦2年(1380)足利義満の頃、三浦貞宗が横須賀の鎮守として、長峯城の城口当る当地古谷山に、信州の上下両諏訪明神を勧請した。三浦貞宗が中心になり城下の横須賀村の人々によって祭られていたが、三浦氏が滅亡後祭祀権は地頭郡代を先達として次第に村の民衆の手に移った。慶長8年(1603)、徳川家康に将軍宣下して慶長11年(1606)、平和な世になったので、代官長谷川三郎兵衛の発起で村の人々により、社殿・境内の大改修を行い農漁の守護神として崇敬を受け(棟札文による)以来永く代官の三浦郡中鎮守の遥拝祈願所に指定された。(寛永八年・享和2年の版文による)その後、村の民衆もまた神社や境内を整備し祭祀を怠らなかったと。せっかくなので、海を見て、横須賀どぶ板通りを進んで行くと明治天皇が、横須賀造船所見学で御駐在されたのを記念して、御駐在の跡に碑が建てられていた。ホテルに戻りながら、三笠ビル商店街で「豊川稲荷 成田不動尊」の案内版。進んで行くと「武藤松翁頌徳碑」と長い階段。登って行くと曹洞宗豊川山徳寿院。境内にはお稲荷様と成田不動尊に手を合わせた。あとは帰路。
さて、「新体制 新体制/殻を破つて生(うま)れた新体制」。1940年7月、近衛文麿が首相に返り咲いてナチズムばりの「新体制運動」を掲げると、演歌師の添田啞蟬坊(あぜんぼう)はこんな詩を作った。「議論のヒマ無し議論は戯論だ」。得意の社会風刺も忘れ、大いに高ぶったのである。興奮したのは啞蟬坊だけではない。政治家も官僚も軍人も企業家も、言論を抑えられていた左派の文化人も、既成秩序の解体と一国一党による改革にそれぞれの夢を託したと。自宅に戻ってからスクラップ等の整理し、横須賀市議会の取り組みの復習、改革するためには汗のほかに努力を惜しんでは成らない。思いもあるが、着実に進めていく。