6月5日(木)連続れんz
コメにまつわることわざは多い。「米一粒、汗一粒」。コメの一粒は生産者の汗一粒にも等しい。コメ作りには大変な苦労があるという意味。コメ不足で一粒一粒を大事に味わっている人が多いのでは。「ご飯粒を残しては駄目。せっかくつくってくれたんだから」。子どもの頃、よく親から言われた。団地にある米穀店からササニシキが入った袋が届く。炊きたては何よりのごちそう。そんな記憶があるからか、パックご飯であれ外食であれ、コメは絶対残さないようにしている。「コメは実が入れば俯く、人間は実が入れば仰向く」。米は実のるほど穂を垂れるが、人は地位が上がるほど尊大になることの例え。謙虚さが大事だ。
さて、人を介して石巻市の支援を行いたいという申し出を伺うため午前10時からコーヒーショップで懇談。あれま〜、次から次へと入ってくるお客様4組が先輩や支援者の方々。懇談を終えてご挨拶させていただき2人組とご一緒してあっという間に正午をまわり、そのまま移動してランチ懇談で午後2時過ぎまで。実りある話題と謙虚さが必要だ。「第2回和み塾」開催について、協議した時、蝦夷、多賀城までと尽きない。アテルイ(阿弖流為)の課題までいただき嬉しく調査ん。アテルイとあわせてモレ(母禮)の碑が京都 清水寺南苑にあった。801年(延暦20年)に行われた征夷大将軍坂上田村麻呂の蝦夷討伐で、勇敢に戦ったアテルイとモレ。翌802年(延暦21年)、田村麻呂が陸奥国に胆沢城を築くと、郷土の犠牲に心を痛め、田村麻呂の軍門に下った。田村麻呂は、2人を連れて京へ戻り、朝廷に助命を願ったが許されず、2人は河内国で処刑された。石碑は、平安建都1200年を期して、1994年(平成6年)に有志により建立された。石碑説明文に『八世紀末頃まで東北・北上川流域を日高見国と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服従しない東北の民を蝦夷と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征東軍を動員した。胆沢(岩手県水沢市地方)の首領・大墓公阿弖流為は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏の戦いでは勇猛果敢に奮闘し政府軍に多大の損害を与えた。八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。田村麻呂将軍は阿弖流為と副将・磐具公母礼を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の反対により阿弖流為、母礼は八〇二年八月十三日に河内国で処刑された。平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。両雄をもつて冥さるべし。』とある。なんとも言えない気持ちになった。夕方から、『海翔けた龍の記憶─叶わぬ願い 想いの先に─』(阿部圭いち)の雄勝十五浜から餓死者が一人も出なかった天保の大飢饉の話をしていると、『雄勝の民話』を入手。2017年6月に特定非営利活動法人雄勝まちづくり協会の発行「おぼね山の狼」「留おんつぁんときつね」「硯上山のはなし」など収録されている。東日本大震災によって壊滅的な被害を受け人口4300人から1000人を切るぐらい激減。民話が語り継がれ、ふるさと再興に役立って欲しいと思った。出生数とともにやらねばならないことを確実に実施していく。