6月20日(金)発見
日本経済新聞に『仁徳天皇陵古墳の副葬品、実物を初確認 小刀や甲冑の一部』と興味深い記事。堺市にある最大の前方後円墳、大山古墳(5世紀前〜中期)で明治時代初めに出土した刀子と甲冑の一部が153年ぶりに再発見され、同市と国学院大学博物館などが19日発表したというもの。分析の結果、金や銀に彩られた非常に豪勢な作りだったことが判明した。同古墳は宮内庁が仁徳天皇陵として一般には非公開で管理しており、副葬品の現物が確認されたのは初めてという。日本美術工芸史上の貴重な資料で、資料が少ない大王級古墳の実態を探る重要な手掛かりとなりそうだ。見つかった刀子は全長約10.5センチ。X線CT分析などを実施したところ、ヒノキ製の鞘に金銅板(金メッキを施した銅板)を巻き付け、銀製の鋲で留めてあることが分かった。刀身は鉄製だった。つり手や柄の部分は失われたとみられる。国学院大の深沢太郎教授(考古学)によると「当時の鞘はほとんどが革製で、類例がない」という。ほかに甲冑の破片が2点、漆塗りの小片1点があり大きさは2〜5センチ程度。甲冑片は鉄板に金銅板が貼り付けてあった。それぞれを包んであった紙には「明治五(1872)年九月」「仁徳帝御陵出ル所」などと記されていた。同古墳ではこの年、墳丘の清掃中に長持型石棺を収めた竪穴式石室が開口し、細長い銅板を組み合わせた短甲(よろいの胴部)や兜、鉄刀、ガラスの杯などの副葬品が見つかったとの記録や絵図が残っている。出土品は全て埋め戻したとされていた。包み紙には「栢」の朱印が押されており、国から派遣されて絵図を描いた古美術収集家・建築家の柏木貨一郎が用いたものとみられる。同大の内川隆志教授(博物館学)は「出土品を戻すなかで、小さな破片が取りこぼされたのでは。丁寧に記録し紙に包んで保管してあったことから、柏木は重要性を理解し、後世に残そうとしたのだろう」と推察している。柏木の没後は親交のあった益田孝(益田鈍翁)の手に渡った。益田は三井物産初代社長などを務め中外物価新報(現日本経済新聞)を創刊した実業家で、茶人としても知られ、後に国宝となる「源氏物語絵巻」など多くの美術品を柏木家から受け継いだ。国学院大学博物館が昨年、益田が収集した様々な考古資料と一括で入手し、調査を進めていた。同古墳には埋葬施設が3カ所以上あるとみられており、今回の副葬品は前方部の斜面で見つかった石室で出土した。深沢教授は「冑には歩揺(飾り)が付くなど実用とは考えにくい。甲冑も刀子も、もともと副葬品として制作された可能性がある」と指摘。大王家のために特別に作られた品だったとみられる。ただ絵図に描かれた甲冑が作られたのは形式から5世紀後半とみられ、埴輪を基にした古墳の推定築造年代とズレがある。今後、古墳の築造過程や被葬者の埋葬の方法などを巡って議論となりそうだ。「大王級古墳の副葬品は希少で5世紀代ではほぼ唯一の資料。嬉しくなる。
さて、本会議一般質問で5名が登壇。 空き家について、選挙の投票時間について、有害鳥獣対策について、津波避難計画について、石巻市総合運動公園陸上競技場基本計画策定について、新たな時代の公民館と本市の将来像について、協同組合の価値と振興について、須江における火力発電所設置事業について、1本市で発信された熊の出没情報について、地域コミュニティ形成の課題について質疑した。思ったより早めの散会。連日、暑い日が続いている。議論が熱くなるのは、大歓迎だが、気温が高く暑くなるのは疲れてしまう。