8月21日(木)歴史感
河北春秋に、宮城県田尻町(現大崎市)で1943年、畑を耕していた地元の住民が思わぬ物を見つける。くわを振り下ろすと、カツンと何かに当たった。土を掘り返したところ、出てきたのは人の形をした焼き物だった。貴重な物だと察したのだろう。その農家では敷地にほこらを建て、大事に祭っていたという。それが研究者の知るところとなり、国が買い取ることになった。今は国の重要文化財となった「遮光器土偶」(東京国立博物館所蔵)である。その土偶が、宮城県多賀城市の東北歴史博物館で開かれている特別展「世界遺産 縄文」で29年ぶりに「里帰り」していると聞いて見てきた話が載っている。行く予定にしているが、なかなか行けない。何とかして調整したいものだ。
さて、ご案内いただいていた本日河北新報の掲載-声の交差点-は女川小学校児童の思い-特集。感性豊かな子どもたちの作文を読んでほくそ笑んでしまった。夢が叶いますように。午前9時義母へ行き、ます皮膚科へ。その後、「夏かざり展」(8月31日(日)まで)が、カフェ・ヌーンで開催。沖縄写真展も開催され、かつての首里城と2019年の火災で正殿など主要7棟が焼失し、現在来年の正殿完成を目指し復旧している首里城がわかる。早めのランチをいただき、予定していた、第3回和み塾は、マルホンまきあーとテラスで午後1時から生涯学習課の出前講座を使い「石巻の板碑-地域的特徴を探る-」石巻市博物館 学芸員・主任主事 泉田邦彦さんにお話していただいた。そもそも板碑とは、鎌倉時代から戦国時代にかけて立てられた石製の供養塔。在銘最古の板碑は埼玉県熊谷市にある阿弥陀三尊像を刻んだ板碑で、紀年銘は嘉禄3(1227)年。石巻市三輪田には、宮城県在銘最古となる文応元(1260)年銘の板碑があります。有紀年銘の板碑の初見は、全国的に文永年間(1264~1275年)が多いが、石巻にあるこの板碑はそれに先立つものだ。板碑の銘文中にしばしば「石塔婆」や「卒塔婆」と刻まれているように、板碑は石の塔婆。塔婆を立てる目的として、まずは死者の追善供養が挙げられる。初七日から三十三回忌まで、さまざまな忌日に合わせて板碑が立てられた。彼岸に合わせて立てられた板碑も散見される。石巻の板碑の特徴の1つに、種子のバリエーションの豊かさが挙げられる。埼玉の武蔵型板碑の場合、種子の九割以上が「キリーク」「サ」「サク」の阿弥陀三尊。それに対し、石巻の板碑は、種子が定型化されておらず、いろんな種子がみられる。石巻市尾崎にある海蔵庵板碑群の銘文や網地島長渡浜から出土した経筒の銘文、あるいは真野の長谷寺にある仏像の墨書銘などを読めば、鎌倉や高野山、京都で修行した僧侶が石巻に来ていたことは明らかだ。石巻に板碑が多い明確な理由は石材産地という点が挙げられる。井内石(石巻市稲井地区産)と雄勝石(玄昌石。同市雄勝地区産)が主に使われ、近年の研究により、登米石(宮城県登米市産)が使用されていることもわかってきた。埼玉県が1番板碑が多い。板碑からうかがえる宗派には、南無阿弥陀仏の六字名号を刻んだ時宗、南無妙法蓮華経の題目を刻む日蓮宗がある。光明真言の偈を持つのは真言宗と考えられるが、当時の宗教のあり方を踏まえれば、特定の宗派で線引きすることは難しいようにも思える。石巻板碑の多様性-「荘厳」を考える。双円性海塔板碑、梵字アラウンケンの5文字を対称させ五輪塔のかたちに組み上げた「双円性海塔」。板碑調査の最前線-板碑拓本の収集と文化財行政の課題-。板碑実物・ひかり拓本、旧町保管資料の集約化。板碑拓本アーカイブのこれから、未収蔵分の拓本採集を継続。質疑応答も活発に貴重な歴史史料をまちづくりに活かせるようにしたい。終えて、こどもフォトフェスタ2025が、マルホンまきあーとテラス 市民ギャラリーで開催されている(8月31日まで)。今年のお題は「こんにちは」、あそぼうと思って挨拶、おじさんのベランダから外へ、演奏したピアノに、魚籠にいるたくさんのおさかなになどこんにちはの挨拶、アイデア満載の作品が嬉しい。