9月23(火)アラハバキ

 日本経済新聞春秋に、自民党の第2代総裁を務めた石橋湛山は晩年、総裁の選び方を巡って「公選はよくないと思う」と語っている。味方をたくさん集めなければならないため派閥の力が働くことになり、カネもかかる、と。後々までしこりが残る恐れも指摘した(岩波書店「湛山座談」)。ではどうするか。例えば総裁を3人にするのが一案だと湛山はいう。名目上の首相は決めつつも3人が協力して首相職を担う――。と、自民党総裁選に絡んで石橋湛山の談話を紹介していた。石橋湛山といえば「日本のケインズ」と称された1952~68年の長期にわたり立正大学学長を務め、法華経の精神と学問の実践とを一体化する生き方を説いた。大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第10・11・12代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜の64日に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも3番目の短さだが、潔い尊敬する政治家だ。
 さて、彼岸中日の定番の牡丹餅とお葛掛けをいただき、焼香へ。その後、取り寄せで読んだ、古賀達也著者の『東日流外三郡誌の逆襲』。禁忌の書は再び開かれる。すべては、壁の内側に飼い慣らされた歴史を打ち壊すための図書だ。日曜日の石巻市桃生町太田の「日高見神社」秋季例大祭と図書から、「アラハバキ」は近年百家争鳴をきわめて多様な変遷を経てきたが、古代においてこの国を二分する東西の王権の片方の王というのが、これまでに衆議到達したおおよその認知というのが気になった。西はアマテラス=イワレヒコ政権によるヤマト国、そしてそれより東は蝦夷(あるいは日高見国)と呼ばれるエリアで、これを統括する者がアラハバキであった。ヤマト朝廷による東征は、スサノヲ、ヤマトタケル、坂上田村麻呂などにより繰り返しおこなわれているところから、ヤマトに服属も従属もしない根強いアイデンティティが東国にはあって、アラハバキは、その象徴ともいうべき存在とされている。アラハバキ神社は、東北地方を中心に、謎の古代神「アラハバキ」を祀る神社。アラハバキは、古事記や日本書紀に登場しない、正体不明の神とされ、塞の神、製鉄の神、あるいは蝦夷の神など、様々な説がある。以前の多賀城の荒脛巾神社に次いで、加美町にある『岐神社』(くなどじんじゃ)と『熊野神社』を伺った。岐神社は、道の分岐点や峠などに祀られる道祖神の原型のひとつで、岐の神を祭神とする神社。 岐の神は、旅人の安全や豊穣、禊、魔除け、厄除けなどを司る神として信仰されてた。また、疫病や災害などの悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐ神。岐の神の由来は、日本書紀の神話に登場する伊奘諾尊が黄泉の国で雷神に追いかけられたときに杖を投げたことにある。その杖を岐の神と名づけたとされている。熊野神社の御由来は、鳥居脇に「往昔東北は蝦夷地であったが、宮崎や鳴瀬川沿いの農民は紀州からの移植農民が多かったという。~本社に斯うたところ、社司藤原重密に分霊をさずけ海路下向させた。途中不幸にも常陸沖で難波し、御神体を失い重密もようやく海岸につき、陸路奥州桃生郡深谷の庄浜市に達した。たまたま、八十郎という漁師が出た時沖に光輝く物を発見。見れば二つの黄金の御神体が獅子頭に乗っていた。八十郎自宅にうつし、朝夕の礼拝を怠らなかったという。重密は、霊夢によってこのことを知り、八十郎を訪れ事の始終を語りあった。やがて神のお告げにより、二人連れたって鳴瀬川を遡り支流田川の三ヶ内や烏川沿いの北川内に行ったが嫡地がなく引き返し、宮崎貴明山の麓に至る。」と。ご祭神は、天照皇大神、伊邪那岐命、伊邪那美命、須佐之男神。猪股外記藤原密なる者、熊野祖神の御加護を願う。「アラヤ郷(宮崎)」の里人達の懇請を容れ、元応二年(1320年)本社より熊野権現の御分霊を勧請アラハバキの峻険(古城山)に鎮座した。」神社の下は、祓川と合流する「烏川流域」には、古代縄文の夷神「アラハバキ」を崇祀する産鉄民が先住し栄えたとある。まだまだ、学習が足りない。そう言えば、石橋湛山は、『本を読んだら、そこに書いてあることを絶えず実際の問題に当てはめ、自己の思考力を訓練し、学問を実際に応用する術を体得しなければならない』という名言を残している。しっかりと実践していく。

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