3月13日(日)大震災 3日目

 寒い。段ボールで横たわったが眠れず2日間寝ていない。外を見ると四方八方の水が凍っていた。8時過ぎ自衛隊のボートが着いて心臓病持ちの患者さんと妊婦さんの搬送をお願いした。食料関係や毛布のためにも移動しなければと決意を実行!した。水に入り胸までの水と薄氷は冷たいより痛い。泳いで本庁に行き食料とヘリによる救出をお願いした。4階には、阿部議長と議会事務局の職員の方々と生存を喜び合い、まだ議員でも8名しか連絡が取れていないと・・・。また、地元や特に湊から牡鹿にかけて情報が皆無だという。思い切って本庁から午後2時歩いて地元へ向かった。立町通りからヘドロや両サイド車が重なり破壊していた。思ったよりも酷い状態だ。石もりから知り合いと生存を確認し喜びを分かち合いながら様子を話し合う。オバタ電気と旧丸光には船が横たわっている。内海橋も客船が横断しトウセンボしている。乗り越えると船がまた乗っかている。岡田劇場を過ぎ氏家床屋もない、川口長付近も壊滅で体験していないが戦後のような映画のワンシーンのようだ。一皇子さんやヤマト屋、ツルハ、ファミリーマート、サンクス、セブンイレブンと見るに忍びない壊滅。人捜しのための知人、友人と合い生存を喜びあった。午後4時半渡波に着いた。11日デーサービスに行った父が元気であると介護施設のスタッフから伺い安心。5時半過ぎ荻浜に行く伏見薫さんに乗せていただき、桃浦通過のとき、洞仙寺をはじめ両サイドの家が全損でない。涙が出た。荻浜も大変な状態だ。荻浜公民館や郵便局も壊れていた。荻浜から自宅へ歩いたが荻浜保育所の道路が分断されいた。小積浜も家がなくなっていた。幸い我が家は無事だったが行方不明者もあり自宅へ着いた時は、安否不明となっていた私が帰ってきたと喜ばれる。親戚も身を寄せていた。生かされた意義を噛み締める。

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